なぜオーストラリアは流刑地だった?囚人植民地の歴史をわかりやすく解説

オーストラリアの歴史を調べていると、必ずといっていいほど出てくるのが「もともとはイギリスの流刑地だった」という説明です。

確かに1788年、現在のシドニーに到着したファースト・フリート(First Fleet)には、多数の流刑囚が乗っていました。その後も約80年間にわたり、16万人を超える人々がイギリスやアイルランドなどからオーストラリアの植民地へ送られています。

ただし、「イギリスが犯罪者を遠い島に捨てた」という一言だけでは、この歴史を正確には説明できません。

なぜ地球の反対側にあるオーストラリアが選ばれたのでしょうか。流刑囚はどんな犯罪を犯した人だったのでしょうか。そして、シドニーやホバート、ブリスベン、フリーマントルといった現在の都市と、流刑制度にはどんな関係があるのでしょうか。

オーストラリアって、国全体が巨大な刑務所として始まったんですか?
そこは少し違います。現在のオーストラリア全土がひとつの流刑地だったわけではありません。ニューサウスウェールズ、タスマニア、西オーストラリアなど、地域や時代によって流刑制度との関わり方も異なりました。

現在では、シドニー中心部のハイド・パーク・バラックス(Hyde Park Barracks)、タスマニアのポート・アーサー(Port Arthur)、西オーストラリア州のフリーマントル刑務所(Fremantle Prison)など、当時の歴史を実際に歩いて学べる場所も残っています。

この記事では、オーストラリアが流刑先に選ばれた理由から、流刑囚の生活、刑期終了後の人生、先住民への影響、流刑制度の終焉、現在見学できる史跡まで、旅行者にもわかりやすく紹介します。

目次:オーストラリアの囚人植民地の歴史(クリックで開閉)
  1. オーストラリアは本当に「流刑地」として始まった?
  2. そもそも「流刑」とはどんな刑罰?
  3. 以前はアメリカへ囚人を送っていた
  4. アメリカ独立で送り先を失ったイギリス
  5. 刑務所が足りず「監獄船」があふれた
  6. なぜオーストラリアが選ばれた?
  7. 最初の目的地はシドニーではなくボタニー・ベイ
  8. 1788年、ファースト・フリート到着
  9. シドニー・コーブに植民地を建設
  10. どんな犯罪でオーストラリアへ送られた?
  11. 凶悪犯ばかりではなかった
  12. イギリスからオーストラリアまでの航海
  13. 流刑囚はオーストラリアで何をしていた?
  14. 全員が刑務所に閉じ込められていたわけではない
  15. 流刑囚の生活と規律
  16. 再犯するとさらに厳しい流刑地へ
  17. 恐れられたノーフォーク島
  18. ポート・アーサーとは?
  19. 女性の流刑囚もいた
  20. 子供まで流刑になることがあった
  21. 刑期が終わったらどうなった?
  22. 元流刑囚から成功者になった人も
  23. シドニーを造った流刑囚フランシス・グリーンウェイ
  24. 先住民にとって1788年は何を意味した?
  25. オーストラリア全土が流刑地だったわけではない
  26. 流刑制度はいつ終わった?
  27. 11か所の「オーストラリアの囚人遺跡群」
  28. 旅行中に訪れやすい3つの流刑史跡
  29. シドニー|ハイド・パーク・バラックス
  30. パース|フリーマントル刑務所
  31. 現在のオーストラリアに残る流刑時代の痕跡
  32. 「囚人の国」という一言では語れない歴史
  33. よくある質問

オーストラリアは本当に「流刑地」として始まった?

「オーストラリアは流刑地として始まった」という説明は、大まかには間違いではありません。

1788年にイギリスが現在のシドニーに最初の恒久的な植民地を建設した際、その中心となったのはイギリスから送られてきた流刑囚でした。

ただし、現在のオーストラリアという国が1788年に存在していたわけではありません。

当時はニューサウスウェールズ植民地がつくられ、そこからヨーロッパ人による植民地化が広がっていきました。その後、タスマニアや西オーストラリアなどにも流刑囚が送られています。

一方、南オーストラリア州の前身となる南オーストラリア植民地は1836年に流刑囚を送らない「自由植民地」として設立されました。

現在の州境と、19世紀当時の植民地の境界も一致していません。

そのため、「オーストラリア全土が巨大な刑務所だった」と考えるより、「現在のオーストラリアの一部の植民地が、イギリスの流刑制度と深く結びついて発展した」と理解するほうが正確です。

そもそも「流刑」とはどんな刑罰?

当時のイギリスでは、犯罪者を国外の植民地へ送り、一定期間そこで働かせる流刑(Transportation)が刑罰として使われていました。

流刑制度そのものはオーストラリアのためにつくられたものではありません。

イギリスでは17世紀から、死刑に代わる刑罰として犯罪者を海外へ送る制度が利用されていました。

1717年の法律以降は制度がさらに整備され、7年、14年、終身などの流刑判決が下されるようになります。

「流刑」といっても、単純に遠い土地へ追放して終わりではありません。

植民地に到着した流刑囚には労働が課され、刑期中は自由な移動も大きく制限されました。

以前はアメリカへ囚人を送っていた

オーストラリアへの流刑が始まる前、イギリスからの囚人の主な送り先のひとつは北米の植民地でした。

18世紀には5万人を超える流刑囚が、イギリスから北米へ送られたとされています。

大西洋を渡った流刑囚は、一定期間労働力として使われました。

つまり、遠隔地の植民地へ犯罪者を送るという考え方自体は、1788年よりずっと前から存在していたのです。

アメリカ独立で送り先を失ったイギリス

ところが1775年から始まったアメリカ独立戦争によって状況が一変します。

独立したアメリカは、当然ながらイギリスから流刑囚を受け入れ続ける理由がありません。

1776年以降、イギリスはそれまで使っていた大規模な流刑先を失いました。

しかも18世紀後半のイギリスでは社会や経済が急速に変化し、刑務所に収容される人も増えていました。

そこでイギリス政府は、新しい流刑先を探さなければならなくなります。

刑務所が足りず「監獄船」があふれた

アメリカへの流刑が止まったからといって、国内の犯罪者が減ったわけではありません。

既存の刑務所だけでは収容しきれなくなり、イギリスでは使わなくなった古い船を川や港に係留し、囚人を収容するようになりました。

これが監獄船(Prison Hulk)です。

内部は非常に混雑し、衛生状態も悪く、病気が広がりました。

アフリカやカリブ海などを新たな流刑先とする案も検討されましたが、最終的に選ばれたのが、ヨーロッパからはるか遠く離れたオーストラリア東海岸でした。

なぜオーストラリアが選ばれた?

ここでよく出てくる疑問が、「なぜ、わざわざ地球の反対側まで囚人を運んだのか」です。

最大の直接的な理由は、アメリカに代わる新たな流刑先が必要だったことでした。

1770年にジェームズ・クック(James Cook)がオーストラリア東海岸を航海し、イギリスはその地域について一定の情報を得ていました。

1783年にはジェームズ・マトラ(James Matra)がボタニー・ベイ(Botany Bay)に植民地を設ける案をイギリス政府へ提出し、ジョセフ・バンクス(Joseph Banks)もこれを支持しました。

1785年、イギリス政府はニューサウスウェールズに流刑植民地をつくる方針を決定します。

ただし、新しい植民地には犯罪者を遠ざけるという役割だけでなく、イギリスの海外拠点を築き、植民地を開発するという意味もありました。

流刑囚は単なる「収容対象」であると同時に、道路、建物、農場、港湾施設などを造る労働力でもあったのです。

最初の目的地はシドニーではなくボタニー・ベイ

意外に思われるかもしれませんが、ファースト・フリートが最初から現在のサーキュラー・キー(Circular Quay)を目指していたわけではありません。

最初の目的地は、現在のシドニー空港より南東にあるボタニー・ベイでした。

1788年1月18日から艦隊が順次到着しましたが、初代ニューサウスウェールズ総督となったアーサー・フィリップ(Arthur Phillip)は、この場所が恒久的な植民地には適していないと判断します。

農業に適した土地や十分な淡水の確保などに問題があったためです。

そこでフィリップは北側のポート・ジャクソン(Port Jackson)、つまり現在のシドニー湾を調査しました。

そこで見つけたのが、深い入り江と淡水を備えたシドニー・コーブ(Sydney Cove/先住民名ワラン〈Warrane〉)でした。

1788年、ファースト・フリート到着

ファースト・フリートは1787年5月13日、イギリスのポーツマス(Portsmouth)を出航しました。

艦隊は全部で11隻。

軍艦2隻、流刑囚輸送船6隻、物資輸送船3隻で構成され、およそ1,500人の人々が約8か月に及ぶ航海に出ました。

資料によって人数の集計方法には若干の違いがありますが、約750人が流刑囚でした。

男性だけでなく、女性の流刑囚も含まれていました。

艦隊はテネリフェ、リオデジャネイロ、喜望峰などを経由し、1788年1月にオーストラリアへ到着します。

シドニー・コーブに植民地を建設

1788年1月26日、ファースト・フリートはポート・ジャクソンのシドニー・コーブへ移動し、植民地建設を本格的に開始しました。

現在ではオペラハウスや高層ビル、レストランが並ぶサーキュラー・キー周辺ですが、当時はもちろん都市どころか道路すらありません。

森林を切り開き、テントを設営し、食料庫、住居、倉庫などを一から造らなければなりませんでした。

そしてその作業を担った大きな労働力が流刑囚でした。

現在シドニーを旅行してサーキュラー・キーを歩いても「元流刑植民地」という印象はほとんどありませんが、ヨーロッパ人によるシドニーの都市建設はここから始まったのです。

どんな犯罪でオーストラリアへ送られた?

「流刑囚」と聞くと、殺人犯や凶悪な犯罪者ばかりを想像するかもしれません。

しかし実際には、窃盗など現在の感覚では比較的軽い犯罪で流刑判決を受けた人も数多くいました。

当時のイギリスでは、現在よりはるかに多くの犯罪に厳しい刑罰が定められていました。

流刑囚には次のような人々が含まれていました。

犯罪・背景例
窃盗衣類、食料、金銭、家畜などを盗む
強盗・侵入盗住宅や店への侵入、路上強盗など
偽造紙幣、文書、小切手などの偽造
再犯以前にも犯罪歴があり、再び有罪となった人
政治・社会運動反乱、抗議運動、労働運動などに関わった人

特に貧困層では、食料や衣服を盗んだことがきっかけで流刑になるケースもありました。

凶悪犯ばかりではなかった

だからといって、「流刑囚は全員、ささいな罪で不当に送られた」と考えるのも正確ではありません。

強盗や暴力犯罪、重大な再犯を犯した者もいました。

また流刑判決に至る事情は一人ひとり異なります。

重要なのは、現在の「刑務所に収容される犯罪者」というイメージを、そのまま18~19世紀の流刑囚へ当てはめないことです。

窃盗犯、職人、兵士、船員、農業労働者、政治犯など、実にさまざまな人が流刑船に乗せられていました。

イギリスからオーストラリアまでの航海

現在ならロンドンからシドニーまで飛行機で約1日ですが、18~19世紀はまったく違います。

流刑船の航海には数か月を要しました。

狭い船内で長期間生活し、食事、水、衛生、感染症などの問題と向き合わなければなりません。

ファースト・フリートでは比較的健康管理が行き届きましたが、その後すべての輸送船が同じ条件だったわけではありません。

特に1790年に到着したセカンド・フリート(Second Fleet)では、船内環境の悪さから多くの死者が出ました。

流刑とは判決そのものだけでなく、家族や故郷から何千キロも離され、いつ戻れるかわからない航海へ送られることでもありました。

流刑囚はオーストラリアで何をしていた?

植民地では、とにかく人手が必要でした。

港も道路も町も十分にない状態から植民地を造るため、流刑囚はさまざまな仕事に従事しました。

仕事内容
道路建設森林を切り開き、都市間を結ぶ道路を建設
建築兵舎、病院、教会、倉庫、官庁などを建設
農業畑の開墾、農作物の栽培、家畜の世話
石切り砂岩などを採掘し、建築材料として加工
港湾作業荷物の積み下ろし、埠頭や倉庫の整備
職人仕事大工、鍛冶、靴製造、レンガ製造、造船など
家事料理、洗濯、掃除、子守など

流刑囚の中には、イギリスで身につけた専門技術を持つ人もいました。

そうした職人は、植民地建設にとって貴重な人材でした。

全員が刑務所に閉じ込められていたわけではない

現代の刑務所との大きな違いがここです。

流刑囚の多くは、大きな刑務所の独房で刑期すべてを過ごしたわけではありません。

政府の建設工事などに従事する人もいれば、民間の農場や家庭などへ労働力として割り当てられる人もいました。

勤務態度や刑期の進み具合によって、生活の自由度にも差がありました。

一方、脱走や規則違反、植民地到着後の再犯などがあれば、鞭打ち、鎖を付けた重労働、独房、より厳しい流刑地への移送といった処罰を受ける可能性がありました。

流刑囚の生活と規律

流刑囚の待遇は、時代、場所、仕事、監督者などによって大きく異なりました。

比較的自由に働きながら生活できた人もいれば、厳しい監視のもとで重労働を課された人もいます。

シドニーのハイド・パーク・バラックスでは、多数の男性流刑囚が大部屋に吊ったハンモックで眠りました。

起床、食事、仕事、点呼、消灯と生活は規則によって管理されます。

規則違反をすると、特権の剥奪、鎖、重労働、独房、鞭打ちなどの処罰が科されることもありました。

それでも模範的に生活した人には、刑期終了前に一定の条件のもとで働き暮らすことを認めるチケット・オブ・リーブ(Ticket of Leave)などの仕組みもありました。

再犯するとさらに厳しい流刑地へ

ニューサウスウェールズ植民地へ送られた後に再び罪を犯した流刑囚は、さらに厳しい「二次処罰」の場所へ送られる場合がありました。

代表的なのがノーフォーク島、モートン・ベイ、ポート・アーサーなどです。

こうした場所は都市部から離れており、脱走も困難でした。

現在のブリスベンにつながるモートン・ベイ流刑植民地(Moreton Bay Penal Settlement)も、1824年に再犯者などを収容する二次処罰地として設けられました。

当時はまだ「クイーンズランド州」は存在しておらず、ニューサウスウェールズ植民地の一部です。

流刑地は1842年に閉鎖され、その後、モートン・ベイ地区は自由入植者に開放されました。

恐れられたノーフォーク島

シドニーから東へ約1,400キロ離れたノーフォーク島(Norfolk Island)も、流刑制度で重要な役割を果たしました。

島にはファースト・フリート到着直後の1788年からヨーロッパ人による入植が始まり、その後は特に厳しい二次処罰地として知られるようになります。

本土から遠く離れ、海に囲まれているため、脱走は非常に困難でした。

現在のノーフォーク島にあるキングストンとアーサーズ・ベール歴史地区も、「オーストラリアの囚人遺跡群」を構成する世界遺産のひとつです。

ポート・アーサーとは?

オーストラリアの流刑史を象徴する場所として、おそらく最も有名なのがタスマニア州のポート・アーサーです。

当時のタスマニアはヴァン・ディーメンズ・ランド(Van Diemen's Land)と呼ばれていました。

ポート・アーサーは1830年に、流刑囚を使った木材生産拠点として始まります。

1833年からは、植民地で再び罪を犯した男性流刑囚などを送る重要な二次処罰地になりました。

木材、レンガ、靴、家具、造船などさまざまな産業が行われ、1840年代には流刑囚だけでも1,000人を超える大規模施設へ発展しました。

後には身体的な罰だけでなく、囚人を隔離して沈黙させる「分離刑務所」の考え方も導入されています。

現在は美しい海と緑に囲まれた観光地ですが、保存された建物や廃墟を歩くと、その穏やかな景色との落差に驚かされます。

女性の流刑囚もいた

流刑囚というと男性のイメージが強いですが、女性もオーストラリアへ送られています。

窃盗などで有罪となった女性が多く、植民地では家事使用人、洗濯、裁縫などの仕事に就くケースもありました。

一方、規則に違反した女性などを収容し、働かせる施設としてフィーメール・ファクトリー(Female Factory)と呼ばれる施設もつくられました。

ホバート近郊のカスケーズ・フィーメール・ファクトリー(Cascades Female Factory)は、現在も残る代表的な施設で、世界遺産「オーストラリアの囚人遺跡群」の一部になっています。

オーストラリアの流刑史を男性だけの歴史として見ると、植民地社会の実像を大きく見落としてしまいます。

子供まで流刑になることがあった

さらに現代の感覚では驚くことですが、若年者も流刑の対象になりました。

イギリスの厳しい刑事制度のもとでは、盗みなどで有罪になった少年がオーストラリアへ送られることもありました。

ポート・アーサーの近くには、1834年に設けられた少年流刑囚の施設ポイント・ピュアー(Point Puer)がありました。

少年を成人男性から分離し、教育や職業訓練を施そうという考えもありましたが、生活は厳しく、現在の少年司法とはまったく異なる制度でした。

刑期が終わったらどうなった?

流刑囚は生涯ずっと囚人だったわけではありません。

7年や14年などの刑期を終えれば自由になり、条件付き恩赦や完全な恩赦を受ける人もいました。

自由になった元流刑囚はエマンシピスト(Emancipist)などと呼ばれ、農民、商人、職人などとして植民地社会に暮らしました。

問題は、故郷に帰ることが簡単ではなかったことです。

オーストラリアからイギリスまでの船賃は高く、家族とも長期間離れています。

そのため、刑期を終えた後もオーストラリアに残り、新しい人生を築いた人が大勢いました。

こうして元流刑囚やその家族は、初期の植民地人口の重要な一部になっていきます。

元流刑囚から成功者になった人も

流刑歴があっても、その後に成功した人はいました。

有名な例のひとりがメアリー・ライビー(Mary Reibey)です。

窃盗で有罪となり、1792年にニューサウスウェールズへ送られましたが、その後は商業や船舶事業などで成功しました。

彼女は長年、オーストラリアの20ドル紙幣にも肖像が使われていた人物として知られています。

ほかにも農場主や実業家、職人として成功した元流刑囚が存在します。

「犯罪者として到着した人が、刑期後には植民地社会をつくる側に回る」という点が、オーストラリアの流刑制度を理解するうえで興味深いところです。

シドニーを造った流刑囚フランシス・グリーンウェイ

シドニー旅行者にとって特に身近なのが、建築家フランシス・グリーンウェイ(Francis Greenway)です。

グリーンウェイはイギリスで文書偽造の罪により有罪となり、1814年にニューサウスウェールズへ流刑されました。

しかし建築家としての能力を認められ、ラクラン・マッコーリー総督(Lachlan Macquarie)のもとで政府建築に関わるようになります。

現在も残る代表作が、シドニー中心部のハイド・パーク・バラックスです。

つまり「流刑囚を収容する建物を、流刑囚として送られてきた建築家が設計した」ということになります。

すぐ近くのセント・ジェームズ教会(St James' Church)などにもグリーンウェイの仕事が残っており、シドニー中心部を歩くだけでも流刑時代の建築を見ることができます。

先住民にとって1788年は何を意味した?

流刑制度の歴史は、イギリスと流刑囚だけを見ていては全体像がわかりません。

1788年よりはるか以前から、オーストラリア大陸にはアボリジナルやトレス海峡諸島民の人々が暮らしていました。

現在のシドニー周辺にも、ガディガル(Gadigal)をはじめとする先住民の社会が存在していました。

シドニー・コーブへの植民地建設は、彼らの土地にイギリスの恒久的な植民地がつくられたことを意味します。

その後ヨーロッパ人の入植地が拡大するにつれて、土地の占有、資源をめぐる対立、感染症などが先住民社会に大きな影響を与えました。

ですから1788年は、「流刑囚がオーストラリアへ到着した年」であると同時に、本格的なイギリス植民地化が始まった年として考える必要があります。

オーストラリア全土が流刑地だったわけではない

ここは旅行者にも誤解されやすいところです。

現在の州ごとに見ると、流刑制度との関係にはかなり違いがあります。

現在の地域流刑制度との主な関係
ニューサウスウェールズ州1788年から主要な流刑先。シドニーを中心に植民地建設
タスマニア州当時のヴァン・ディーメンズ・ランド。多数の流刑囚を受け入れた
クイーンズランド州州成立前、ニューサウスウェールズ領内のモートン・ベイに二次処罰地を設置
西オーストラリア州1850年から1868年まで流刑囚を受け入れた
南オーストラリア州1836年に流刑囚を送らない自由植民地として設立
ビクトリア州直接的な流刑植民地として発展した地域ではないが、初期入植や後の「エグザイル」など流刑制度との関わりはある

「オーストラリア人の祖先はみんな囚人だった」という冗談を耳にすることがありますが、もちろん事実ではありません。

自由移民も多数渡航し、その後はゴールドラッシュなどを通じて世界各地から移民が流入しました。

流刑制度はいつ終わった?

オーストラリアへの流刑制度は、地域によって終了時期が異なります。

ニューサウスウェールズへの本格的な流刑は1840年に停止。

ヴァン・ディーメンズ・ランド、現在のタスマニアへの流刑は1853年に終了しました。

ところが西オーストラリア州では事情が異なります。

労働力不足を背景に1850年から流刑囚を受け入れ、約1万人の男性流刑囚が送られました。

そして1868年、流刑船ホーグモント(Hougoumont)がフリーマントルへ到着。

これがイギリスからオーストラリアへ送られた最後の流刑船となりました。

1788年のファースト・フリートから数えると、およそ80年間にわたった制度でした。

11か所の「オーストラリアの囚人遺跡群」

流刑制度の歴史を伝える重要な11か所の史跡は、2010年に「オーストラリアの囚人遺跡群(Australian Convict Sites)」としてユネスコ世界遺産に登録されました。

世界遺産構成資産地域
キングストンとアーサーズ・ベール歴史地区ノーフォーク島
旧総督官邸とドメインニューサウスウェールズ州パラマタ
ハイド・パーク・バラックスシドニー
オールド・グレート・ノース・ロードニューサウスウェールズ州
コカトゥー島囚人遺跡シドニー
ブリッケンドンとウールマーズ農場タスマニア州
ダーリントン保護観察所タスマニア州マリア島
カスケーズ・フィーメール・ファクトリーホバート
ポート・アーサー史跡タスマニア州
コール・マインズ史跡タスマニア州
フリーマントル刑務所西オーストラリア州

これらは単なる「昔の刑務所」ではありません。

流刑、強制労働、植民地開発、刑罰制度の変化などを伝える遺跡として、世界的な価値が認められています。

旅行中に訪れやすい3つの流刑史跡

オーストラリア旅行で流刑史を知りたい場合、特に訪れやすいのが次の3か所です。

施設旅行者におすすめのポイント
ハイド・パーク・バラックスシドニーCBD中心部。短時間でも立ち寄りやすい
ポート・アーサー史跡流刑植民地の規模や制度を最も実感しやすい
フリーマントル刑務所パースからアクセスしやすく、ガイドツアーが充実

シドニー旅行ならハイド・パーク・バラックス、タスマニアを訪れるならポート・アーサー、西オーストラリア旅行ならフリーマントル刑務所を組み込むと、この歴史がかなり具体的に見えてきます。

シドニー|ハイド・パーク・バラックス

ハイド・パーク・バラックスは、シドニーCBDのマッコーリー・ストリート(Macquarie Street)にあります。

1817~1819年に流刑囚の労働によって建設され、設計したフランシス・グリーンウェイ自身も元流刑囚でした。

ここでは流刑囚が眠った部屋、ハンモック、所持品、考古学的資料などを通して、シドニーの流刑制度を学ぶことができます。

2026年9月現在、博物館は入場無料で、通常は毎日午前10時から午後6時まで開館しています。

さらに日本語を含む複数言語のセルフガイド体験が用意されているため、英語に自信がない旅行者にも訪れやすい施設です。

サーキュラー・キー、王立植物園、セント・メアリー大聖堂などと組み合わせて徒歩で観光できます。

タスマニア|ポート・アーサー史跡

ポート・アーサー史跡(Port Arthur Historic Site)は、ホバートから南東へ車で約1時間30分のタスマン半島にあります。

広大な敷地に刑務所跡、教会、病院、住宅、庭園など30を超える歴史的建築物や遺構が残っています。

2026年9月現在、通常は毎日午前9時から午後5時まで開場し、一般入場は大人55豪ドル。

入場には史跡見学のほか、短いガイド解説や港内クルーズなどが含まれています。

セルフガイド用の音声体験には日本語も用意されています。

規模が大きいため、駆け足で1時間だけ見るより、少なくとも半日程度を確保するほうがおすすめです。

美しい海辺の景色と重い歴史が同居していることも、ポート・アーサーの印象的なところです。

パース|フリーマントル刑務所

フリーマントル刑務所は、西オーストラリア州の流刑時代を代表する建物です。

西オーストラリアへ最初の流刑囚輸送船が到着したのは1850年。

刑務所は1850年代に流刑囚自身の労働によって建設され、1855年から主要な建物が使用されました。

その後も刑務所として使われ続け、閉鎖されたのはなんと1991年です。

2026年9月現在、ゲートハウス、ビジターセンター、囚人資料展示などへの入場は無料。施設は通常午前9時から午後5時まで開いています。

刑務所内部を詳しく見る場合はガイドツアーへの参加が必要で、「コンビクト・プリズン・ツアー」など複数のコースがあります。

通常の刑務所内部だけでなく、地下トンネルを探検するツアーもあり、歴史施設としてはかなり体験型です。

パース中心部からフリーマントルへ日帰りで訪れる旅行者も多いため、フリーマントル・マーケットや港周辺と組み合わせることができます。

現在のオーストラリアに残る流刑時代の痕跡

流刑制度が1868年に終わってから150年以上が経っています。

そのため、現在のオーストラリアを旅行して「囚人植民地だった国」という雰囲気を感じることはほとんどありません。

それでも注意して見ると、その痕跡は各地に残っています。

シドニーには流刑囚が建設した道路や建築があり、ブリスベンの都市成立にもモートン・ベイ流刑地の歴史が関係しています。

タスマニアには特に多くの流刑時代の建築や遺構が残り、西オーストラリア州のフリーマントルには19世紀の巨大な刑務所がほぼそのまま残っています。

またオーストラリアでは、家系を調べていくと19世紀の流刑囚にたどり着く人も少なくありません。

かつては流刑囚の祖先がいることを隠す家庭もありましたが、現在では初期オーストラリア史の一部として家族史を調べる人も多くなっています。

「囚人の国」という一言では語れない歴史

オーストラリアへの流刑が始まった大きなきっかけは、アメリカ独立によってイギリスが従来の流刑先を失い、国内の刑務所がひっ迫したことでした。

その結果、1788年にファースト・フリートがシドニー・コーブへ到着し、ニューサウスウェールズ植民地がつくられます。

そこから約80年間で、16万人を超える流刑囚がオーストラリアの植民地へ送られました。

しかし彼らは全員が凶悪犯だったわけでも、全員が刑務所の独房で暮らしたわけでもありません。

建物を造り、道路を敷き、農場で働き、船を造り、刑期を終えるとそのままオーストラリアに定住した人も大勢いました。

一方で、この歴史はイギリス人と流刑囚だけの物語ではありません。

流刑植民地の建設は、すでに何万年もの歴史を持っていた先住民の土地に、イギリスの恒久的な植民地を築いていく出発点でもありました。

流刑制度、植民地建設、先住民の歴史は切り離して考えることができません。

サーキュラー・キーを歩き、ハイド・パーク・バラックスを訪れ、タスマニアのポート・アーサーやフリーマントル刑務所を見ると、教科書の中の「流刑地」という言葉が、実際の都市や建物とつながってきます。

オーストラリア旅行で古い建物や街並みを見るとき、この背景を少し知っているだけで、その土地の見え方はかなり変わるはずです。

よくある質問

なぜイギリスは囚人をオーストラリアへ送ったのですか?

それまで主要な流刑先だった北米植民地がアメリカ独立によって利用できなくなり、イギリス国内では刑務所の収容能力がひっ迫していました。新たな流刑先と植民地を必要としていたイギリス政府がニューサウスウェールズを選び、1788年に流刑植民地を設立しました。

オーストラリアへ何人くらいの流刑囚が送られましたか?

1788年から1868年までに16万人を超える人々がオーストラリアの植民地へ送られました。資料によって集計方法が異なるため約16万2,000~16万6,000人などの数字が示されています。

流刑囚は殺人犯などの凶悪犯ばかりでしたか?

いいえ。強盗や重大犯罪を犯した人もいましたが、衣服、食料、金銭などの窃盗で流刑になった人も数多くいました。当時のイギリスでは現在より厳しい刑罰制度が採用されていました。

オーストラリア人の祖先はみんな流刑囚なのですか?

もちろん違います。自由移民も多数移住しており、南オーストラリアのように流刑囚を送らないことを前提に建設された植民地もあります。その後もゴールドラッシュなどを通じて世界各地から移民が増えました。

ファースト・フリートはどこに到着したのですか?

1788年1月に最初はボタニー・ベイへ到着しましたが、恒久的な入植地には適さないと判断され、1月26日にポート・ジャクソンのシドニー・コーブへ移りました。現在のサーキュラー・キー周辺です。

流刑囚は刑期が終わるとイギリスへ帰ったのですか?

帰国した人もいましたが、多くはオーストラリアに残りました。帰国には高額な船賃が必要だったことに加え、刑期中に仕事や家族など生活基盤ができた人もいました。元流刑囚から農民、職人、商人などとして成功した人もいます。

オーストラリアへの流刑はいつ終わりましたか?

地域によって異なります。ニューサウスウェールズでは1840年、現在のタスマニアでは1853年に輸送が終了しました。オーストラリアへの最後の流刑船は1868年に西オーストラリア州フリーマントルへ到着したホーグモントです。

シドニーで流刑時代の歴史を見られる場所はありますか?

最も訪れやすいのはハイド・パーク・バラックスです。世界遺産「オーストラリアの囚人遺跡群」のひとつで、シドニーCBDのマッコーリー・ストリートにあります。コカトゥー島にも世界遺産に登録された囚人遺跡があります。

流刑制度の歴史を見るなら、どこが一番わかりやすいですか?

シドニーならハイド・パーク・バラックスが手軽です。より大規模な流刑植民地の姿を見たい場合は、タスマニアのポート・アーサー史跡が充実しています。西オーストラリア州ではフリーマントル刑務所でガイドツアーに参加できます。

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オーストラリアのオプショナルツアー、アクティビティ、宿泊パッケージ

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お得な現地発ツアーとアクティビティ

トラベルドンキーは、海外の各都市から出発・催行されるツアーを取り扱う、海外現地ツアー専門サイトです。

オプショナルツアーと一般的に呼ばれている、日本語ガイドの付く日帰りツアーの他、英語ガイドで行われるツアー、海外現地出発・解散の宿泊を伴う周遊小旅行、マリンスポーツ・乗馬・スカイダイビング等のアクティビティ等も取り扱っています。